【郷事諮問録】3
【郷事諮問録】森と里と海と
今回はオフィスの所在地である京都の中で出会った人、ということで京都大学の皆さんとの対話のお話。
「先生達の文化祭」から、好奇心を持続させるための仕掛けを考えました。

さてもやは長らへ住むべき。
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仕事柄、いろいろな土地の人と話をする機会がある。
そうすると「京都で仕事するってどんな感じ?」と訊かれることが、しばしばある。──うーん、人が多すぎないことがいいな。知り合いの知り合いが繋がるくらい。街も自転車で巡れるくらいの規模感で。
季節感を相当大切にしてる感じもいい。鮎が遡上する川が街中を流れてて、視界に当たり前に山や空が綺麗にみえて。時期になれば蛍を見ながら帰宅したり。
自然を制御しきってしまうと思考が「人間中心」にもなるが、そうならないように律している風情がある(それは多分、人が歴史を制御しきる近代以前に発生した古都だから、という点も大きいのだろうけど)。人々の価値観が多様である事を受け入れる文化もいい。観光地でもあり、大学の街でもある。伝統を守る役割の人がいる反面、様々な人が常に去来する。
ならばこそそれぞれ多様な価値観をもっているものである、という前提。新品よりも「長持ちをするものはそれだけよいもの」という認識が浸透していたりもする。なにしろ1000年前とあまり感性が変わってない事に、住んでいれば気づく。
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人間中心でもなく、視界にそれほど人間が増えすぎない、となると、総じて、ちょっとだけ息がしやすい。無理にマウント取ろうと肩肘を張るのが馬鹿馬鹿しくなるのだ。
さて、この歳時記を大切に丹念に時を重ねる日々が続くことを願ってはいるのだが、ぼうっとしててはなかなか続けられない。
現状を保持するためには維持コストがかかるのだ。京都市は財政難なのだそうである。
困った。せっかく「住みやすい京都」なのに、これを続けるために市民は何ができるだろう、とは、日々を過ごしながら割と意識をする昨今である。
さて、ここまでが長い前段。
より京都にいることを面白く、維持してアップデートできるような方法がないだろうかと、考えてみた。
研究者との対話
少し話は変わって。京都は日本一の大学の街である。
市民のじつに1割が大学生といわれている。
大小様々な大学があり、様々な催しや研究が日々行われているなかで、京都大学にて、年に一度開催されているイベントに「アカデミックデイ」というものがある。
「京都大学アカデミックデイ」とは
「京都大学アカデミックデイ」は、市民や研究者、文系、理系を問わず、誰もが学問の楽しさ・魅力に気付くことができる「対話」の場となることを目指している企画です。年に一度、100名以上の研究者が一堂に会します。これは、国民と科学・技術に関わる本学の研究者が直接対話することで、本学の研究活動をわかりやすく説明するともに、国民の声を本学における研究活動に反映させることを1つの目的として始めた取り組みです。 京都大学サイトより
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つまり、研究者達による一日限りの「文化祭」。
コンテンツは大別して4つある。- 研究者によるポスターセッション
- 研究者と対話できるちゃぶ台談話
- 研究者がセレクトした書籍の物販
- 初対面の研究者同士による異分野対話(一般人も対話参加可能)
これにドリンクエリア(おかわり可)までついてなんと無料。こんな贅沢があろうか。
「学者がどんな研究をしているか、ひごろから学外の皆さんにも知ってもらうべし」という目標があり、その一環として開催されているらしい。私はこのイベントに例年、都合が許す限り参加している。
対話の仕掛け
このイベント、ここ2年は時勢柄、オンラインで開催されていて、一部「ちゃぶ台対話」だけを切り出して配信している。

オンラインと現地開催ではそれぞれ良い点と残念な点があり、それは他のあらゆるイベントで共通の話のため、ここでは割愛する。
ただ一点、オンラインではどうしても不特定多数との対話というよりバラエティ番組見てるような「聞き手」感がでやすい、という側面は特徴としてあげておけるかと思う。
今回私が言いたいのは、いかに「対話」に持ちこむか、が何より大切ではないかということなのだが。
対話は、どうやって醸造するのだろう。
そのヒントがアカデミックデイにあるような気がしている。
研究の話を聞いてみれば驚くはずだ。
例えば魔女の研究や、iPS細胞研究所の最新研究。合金の研究、医術系の研究の話。
あるいはそれを検査するための試行錯誤の話。
ノーベル賞学者の弟子である研究者にきく、「生身のノーベル賞学者」の話(まあこれは雑談)。遺伝子についての研究。
哲学の研究や地震の研究、後漢時代の後宮の話。生命倫理の話や小型人工衛星、あるいはガンマ線検出装置の話。
まずは「世の中にはこんなにたくさんの種類の研究があるのか……」と呆然とすることになるはず。
そして、それは何のために行われている研究なのか、にわかに分からないものがとても多い。
情報量が多すぎてとっさに咀嚼しかねるとでもいえばいいのか。
いわゆる「そんな知識が何の役に立つのですか」問題が吹っ飛ぶ。何の役に立つのかいつ役に立つのかなんて私にはわかるはずがない。
実際、現場には地元の小学生なんかも親に連れられてやってきて、ポスターの傍らにいる先生に「このおじさんだれ?」等と質問している。(相手は膝を折って小学生に視線を合わせながら、「この人はユングというひとで…」などと説明している)
素人にわかりやすく伝えるのが大切である、という話ではない。
そもそも全く情報リテラシーも興味関心もバックグラウンドも違う人間が、対話をする、ということが非常に大切なのだと思う。
学問は対話である、というようなことを仰った人がいる。
先の京大総長、山極寿一先生である。
ニュースサイトや論文の紙面には「結論」は載っているが、対話は生まれない。
それを可能にするイベントがアカデミックデイの醍醐味なのだと思う。
何が強いのか、どうすれば楽しいのか
京都が財政難である、ということはずいぶん前から日常的に言われていて、それでも全く身動きができないでいる日々だった、と私は感じている。
そこに新型ウィルス感染症が起きた。
働き方も大きく変わったが、一番変わったのは「本気でやろうと思えば出来るじゃないか」ということではないだろうか。