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めぐるいとなみ、伊予の旅

ロフトワークに入社して1ヶ月の田中といいます。
転職すると一気に仕事のやり方も変わり、先端の情報に触れる機会も増え、わたわたしてしまっていました。そんな中、ロフトワークの旅人、田根と旅に出ることに。まだロフトワークに染まりきっておらず、かといって前職の色も抜けつつある、そんな生身の田中が訪れた愛媛県の山奥で感じたことをお伝えします。

訪問先の愛媛県松野町目黒地区は、高知との県境

自然のめぐみ

愛媛県で一番小さい自治体、松野町。訪れる目黒地区は、最後のコンビニがある町の中心から車で15分、峠を越えた先にある。エンジンがうなる急カーブの坂道の先、トンネルを抜けると、緑が歓迎してくれる。
「森の国」と言われる松野町の最奥、足摺宇和海国立公園の一角である滑床渓谷を擁するここ目黒地区は、濃密な生命の息遣いが感じられる場所だった。

滑床渓谷は清流である。四万十川の源流。
周囲を囲む標高1000m級の鬼が城山系に降り注いだ雨水を集め、なめらかな一枚岩の上を踊るように飛沫をあげて流れ落ちる。触れると冷たくて確かな質感がある。水だって生きているかのようだ。
深呼吸すると心地よい。湿度がほどよいのだ。滑床渓谷を歩くと、苔の多さに驚く。右も左も苔。木々や岩々を、ふかふかの緑の苔が覆っている。
水が生まれる場所を、見たことがあるだろうか? どこからともなく湧いた水を、苔がリレーしていく。ぽつん、ぽつんと、水滴が集まり、小さい流れになり、そして清流となる。
岩の上に若芽が育つこともある。苔があり、適切な水があるから、岩の上に落ちただけの種子が芽吹くのだ。芽吹いてもすぐ下は岩。そんななか、必死で根を伸ばし、岩を割って育つような木もあった。豊かな生き物をはぐくむ水がある。

苔に水分が集まり、水滴になる。
水滴が集まり、清流になる。
苔に種子が落ちて、芽吹く。
やがて木は育つ。たとえ岩の上であっても。

目黒地区を歩いていると、多様な種類の生き物が力強く生きていることを実感する。うぐいす、ニイニイゼミ、蛙、ヒグラシ…いろいろな生き物が今を盛りと鳴きわたるのだ。
滑床渓谷は、風の通り道でもある。ほぼ一直線の谷の流れに沿って、風も流れる。渡り鳥も多い。風もまた、生き物の多様さをもたらしている。

こうした豊かな命が息づく森は、息苦しさがない。意識しなくても、呼吸が深くなる。目から、鼻から、耳から、五感を通して情報を取り入れる。生身の自分のまま、自然と向き合う感覚がある。

五感と感情が繋がること。都会では、たとえば通勤電車は本当だったら臭くて苦しいけど、意識してしまうとつらくなるから感じないようにしていたのだろう。五感と感情の間に、分離があった。
でもこの森で、豊かな生命が息づく自然に触れて深呼吸していると、五感と感情が接続してくる感覚があった。

人のいとなみ

いまの目黒地区は、人口270人の2/3が65歳以上の限界集落。コンビニもスーパーもない。
しかしかつては、徒歩で山を越え伊予と土佐を結ぶ交通路の中継地であり、また豊富な森林も重要な資源であった。むしろ豊かな街だったのだ。

「目黒山形」という、400年前に作られた精巧な模型が残っている。江戸時代初期、宇和島藩と吉田藩という2つの藩の境目が目黒地区のどこを通るか争いになり、江戸幕府に裁定してもらうために作られた立体地図だ。
400年前というと、地図で有名な伊能忠敬よりさらに200年の昔。それなのに精度は現代と遜色なく、きっと当時の最先端技術が注ぎ込まれたのだろう。それだけ、重要な土地だったのだろう。

面白いことがある。この立体地図には民家の位置まで一軒一軒精密に記されている。
これを見れば、当時から現代まで、住む場所や世帯数に大きな変化がないことがわかるのだ。少なくとも400年、延々と人の営みが継続してきた。そしてこの先も継続していけるのだろうと想像できる。
サステナビリティという新しい用語よりはるかに長い年月の重みがある。

400年前の立体地図、目黒山形。
いまも集落は、大きく形を変えていない。

400年、自然と関わりながら暮らしが営まれてきた。
家の前の田畑で自分が食べる野菜や米を自分で作る。お茶も作る。漬物も漬ける。さらに、山で木材を育てたり、大工したり、ハチミツを採ったり、川で魚を採ったり。
「地震でも戦争でもなんのことない、生きていけるけぇ」こう気負いなく言ってのける。生きる自信をもっている。

サステナビリティとかSDGsとかの言葉は知らないけれど、日々のいとなみに真剣に向き合った結果、水の循環や風の循環について肌感覚として鋭敏に知っている。

例えば肥料を撒きすぎた田んぼで稲が不健康に育ち、その水が川に流れると川にヨシが増えすぎて流れがよどみ、そして息苦しい水が海に流れると魚が減る。
山では100年や300年先を考えて木を植え木を切る。
自分の世代、目の前の土地を越えて、日々のいとなみが続くことを真剣に考えている。
限界集落こそ先端と言われるが、未解決課題が多いだけの課題先端地域でない。サステナビリティの点では課題解決を実践できている先端なのだ。

山からの豊富な水が田畑を潤し、川に流れる。
植樹した木が使われるのは、子や孫の世代。

細羽雅之さんは、この目黒地区に魅せられて移住した。

広島を中心にホテルを経営する中で、滑床渓谷の現『水際のロッジ』の再生に着手、自然の美しさを体感できるホテルにリノベーションした。しかしオープン直後にコロナ禍で長期休業を余儀なくされた。はたして何のためにホテルしているのか、思い悩んだという。その中で心を打ったのが目黒の自然の美しさであり、人のいとなみだった。
この地で人間が人間らしく暮らす世界を構築したい、そう考え、田んぼを耕すかたわら、外の人と集落の人をつなぐ触媒役になっている。

「源流意識」という言葉を聞いた。目黒地区は最上流だから、自分たちは川をきれいにしないといけない。細羽さんの田んぼの一つは、自然農法「不耕起栽培」だ。

一般的なトラクター・肥料・農薬を使う農法、いわゆる「慣行農法」というシステムは、戦後収量を増やすために導入された。
自然の山の木が肥料をやらないでも育つのは、土の中の生物たちによる分解のネットワークができているからだ。人の手が入っていない環境では、土に落ちてきた枯葉を虫やみみずが細かくし、そのすぐ下、土の表面近くの好気性細菌が分解しながら土に吸い込まれ、地中の嫌気性細菌が栄養分に変える。上から下へと物質の流れができている。
トラクターで深く耕してしまうと、この流れが分断される。確かに土が柔らかくなり、根が深く密集して植えられるだろう。しかし自然の土の垂直方向の分解のネットワークは崩れる。土中細菌が分解できないかわりに栄養を補い収量を増やすため、肥料が必要となる。だが肥料は虫を呼ぶし、米の雑味のもとにもなる。収量を増やすために密集して稲を植えると稲の間に空気が通らず、虫や病気も広がりやすくなる。対策で農薬をまく。

しかし今は米の消費量が減り減反政策がとられる時代。そして本来の自然の力に着目できる時代だ。
「不耕起栽培」では、土を耕さず、冬も水を溜めたままにする。自然の分解のネットワークが保持されている。秋、稲刈りが終わった際に出た稲わらが、徐々に分解され、めぐりめぐって春に植える稲を育てる栄養分になる。
あぜの草は刈らない。虫たちは稲より青草のほうが好きだから、青草があれば稲につかないという。
そうして耕すことも草を刈ることもしなくても、美味しいお米ができる。単位面積あたりの収量は慣行農法に劣るかもしれない。でも手間は、手作業の田植えと稲刈りくらい。
そしてなにより、美味しくなる。

自然農の田んぼには、生き物が多い。
左が自然農、右が慣行農法。稲の色が違う。

人が管理する慣行農法と、自然の生態系を活用する自然農法は、価値観が真逆で、衝突も起きうるのだろう。他の地域では、善意かわからないが自然農法のあぜに除草剤をまかれた例もあったという話も聞いた。

しかし目黒は限界集落。うるさいことを言う血気盛んな若手もいない。
逆に、慣行に囚われない農法を実施できる時代が来たのだ。「限界集落から日本を逆回転させる」と細羽さんは言う。限界集落は、実験的にも新しい取り組みを行えるという観点でも先端地域なのだ。

毛利伸彦さんは、無農薬無肥料で稲を栽培し、梅は減農薬で栽培していて、区画整理されていない田んぼが30枚、約2.5haもある。広すぎるけれど、高齢で稲作できなくなった家から田んぼを託されると、つい引き受けてしまう。
毛利さんは56歳。目黒地区で一番若い専業農家だ。

夏の田んぼは、草との戦い。毎朝5時から草取りをしても追いつかない。稲と同じくらいの高さまでヒエが育った田んぼもある。
「農薬とかまいて楽しようとか思ってしまうことないんですか?」と聞いたら「思いつきもせん、そんなんするくらいやったら、ヒエに負けて収穫できんほうがましやろ!」という。
毛利さんのお米を買うのは、知り合い経由で毛利さんを知り、共感した人たち。信頼は裏切れない。

そんな毛利さんだから応援したくなる。近所の人が草取りを手伝うこともある。
ぼくも手伝わせてもらった。太陽の下、ひたすら手作業で草を取り続ける。ヒエたちは生命力が強く、足元が不安定な田んぼでの作業は重労働だ。汗が吹き出す。太陽の動きとか、草の香りとか、いつもより敏感に感じるように思う。
そして一緒に仕事しながらの何気ない会話が楽しい。外で一緒に手を動かして作業すると、一体感が生まれた。
何気ない会話のなかで、めぐる自然のいとなみに気付かされた。

朝もやの中、草取りを始める。
育ったヒエを抜くのは重労働だった。

目黒は、コミュニティが分断されていない集落だ。

お裾分けが根付く町。
「ひろぽん、これ持ってきぃや」とすいかを2球、「こんなきゅうり見たことないやろ、地生えやき」と、太さ5cmくらいもある在来種のきゅうりを4本…30分歩いただけなのに、こんなにももらってしまう。
住む人にとっても、こうして交流し話すことが貴重で楽しいのだ。金銭を介さないからこそ、ありがとうの気持ちが直接伝わる。
輸送コストをかけて都会に運び、結果生産者と消費者が分断されて誰が作ったのかわからなくなったスーパーの野菜とは違う。豊かな心と心のやりとりがあった。

きゅうりとたみこさん
心がこもったお裾分けに、つい笑顔になる

サステナビリティを考えるために

ぼくは前職、素材メーカーで働いていた。当時からサステナビリティとか環境配慮材料は、重要なテーマではあった。でも頭で重要と考えていただけ。今後規制がかかるから、事業を継続できなくなるから、上司に言われたから…その程度だった。だから、既存の事業の範囲で、既存の流通や商品体系を前提としてサステナブル素材を導入することしか考えなかった。工業都市に住んでいたぼくにとって、サステナブルはその程度のものだった。
しかし目黒地区で体感したのは、サステナブルとかSDGsとかあいまいで他人事なカタカナ言葉ではなく、自分ごととしての生き方だった。めぐる自然のいとなみとともに生きる生き方だと気づくことができた。

技術者には、何かを作って喜んでもらった原体験があるのではないかと思う。ぼくは、自由研究のビー玉転がしだった。作ったぼくの目の前で、クラスの皆が楽しんでくれた。
しかし現代社会におけるものづくりは工業化されて複雑で分断されている。もし自分が研究開発したとしても、その後設計、品質保証、営業、中間流通、小売など多くの関係者の手を経たうえでユーザーに渡り、使う人の顔を見ることは難しい。そして分断されていることが当たり前だと思ってしまっていた。

目黒地区では、いろんなことを感じた。言葉にできない思いもいっぱいあるけれど、その中で一つ言うなら、分断されていないいとなみを体感できた。
滑床渓谷では、水が生まれて流れをつくり命をはぐくむ姿を目の当たりにできた。自然農は土中細菌など生態系を分断することなく、植えた種子が水と風と太陽の力で育つ姿を体感できた。お裾分けも、地域で採れた野菜を手の届く範囲で融通しあう循環だ。
一連の流れが地域内で完結していて、めぐるいとなみを目にすることができる。ロジックだけじゃなくて、人間の生物的な実感として、めぐるいとなみの中に在ることを感じるのだ。だからそこで暮らしていると、生きていけると自信をもって言えるのだろう。
こうした実際に回っている循環に触れることは、工程の間で顔のわからない人たちにリレーしていくのが当たり前だった現代的ものづくりをしていると新鮮で、刺激的だった。

「サステナビリティ」とは何なのか、感情的に自分ごととして共感できた気がする。いまぼくは京都という都会に身をおいているが、この感覚は染み付いて忘れることができないだろう。

株式会社ロフトワーク, FabCafe Kyoto / MTRL
田中 裕也

奈良県出身。大学では化学を専攻。材料は先端機能だけでなく、見たり触れたりすることで暮らしを良くできる存在ではないかと考えてメーカーに就職、キッチン天板などで使われる人造大理石材料の開発業務に従事。つくり手の思いに共感したり好きになった素材を長く使い続けたりするような、素材と人の間にもっと愛がある関係を築きたいとの思いが溢れ、2022年ロフトワークに入社。
好きなことは自然とか山、そしてつくる人の話を聞くこと。

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